何でないか

予測される誤解

日本語を表記するローマ字規則というと、音声を表記するものであるとか、仮名漢字を置き換えようとするものであると言うイメージがついて回ることがあります。教育ローマ字は、そのいずれにも当てはまりません。

教育ローマ字が音声表記をしない理由

理念でも示している教育ローマ字の目的に従えば、音声との対応は犠牲にならざるをえません。三大原則である「ローマ字入力に対応すること」「アクセントとイントネーションを表記すること」「重要な文法事項をマークすること」のそれぞれが、音声表記の実現に制約を与えています。いかに、ひとつづつ取り上げて説明します。

ローマ字入力への対応

現代仮名遣いの非表音性

最も重要な原則は、ローマ字入力に対応することです。そして、現在の第二言語話者のニーズ、および日本社会の現状に鑑みて、それは、「教育ローマ字の綴りを見て、現代仮名遣いによって正しく入力できる」ということを意味します。したがって、音声との対応は、少なくとも現代仮名遣いと同じレベルにおいて犠牲にならざるをえません。一例を挙げると、現代仮名遣いではオ段長音の最終母音が「う」によって綴られることがあります。「昨日」という語は仮名では「きのう」と綴られ、ローマ字入力では kinou のように綴られなければならなりませんが、発音は /キノー/ です。綴り上の最終母音は u なのに、実際の音声としてはオ段長音となって現れるのです。このような例は、他にも ei が /エー/ のように発音されるとか、狭母音がいくつかの環境下で無声化する(例えば、「明日」は asita ですが、実際の音声は [aʃta] に近くなると言った現象)などがあり、数え上げていけばきりがありません。

綴りと発音の対応の学習

外国語を学ぶにあたっては、綴りと発音の両方を学習しなければならないことは、英語の学習経験を思い返していただければ明らかであろうと思います。発音だけを学習したのでは、正しく綴ることはできないし、逆に綴りだけを学習しても、正しく発音したり、聞き取りをすることができなくなってしまいます。学習者としては、綴りと発音を別々に覚えるよりも、発音と綴りの対応関係を学習していくのが正道です。先ほど取り上げた {ei} → /エー/, {ou} → /オー/ と言った規則を学習しなければならないのです。音声表記をしていたのでは、学習の機会を奪うことにも繋がりかねません。日本語学習者のことを考え、ローマ字入力に対応するという原則を守ろうとすれば、現代仮名遣いの転写に近くなるのは道理であり、教育ローマ字は実際にそのように設計されています。

アクセントとイントネーション

アクセント

日本語はピッチアクセント言語であると言われます。実際、日本語のアクセントはピッチによって示されるので、それは間違いとはいえません。しかし、ピッチそのものをアクセントとしてしまっては、闇雲な発音練習と音声の暗記をするしかなくなり、体系的な学習にはなりえません。

アクセントの指導に際しては、単語の各拍の高さを2段階に分類し、「高い」「低い」などと各拍に記号をふって、その通りに発音させたり、それを覚えさせたりすることが行われています。それは例えば、以下のようなものです。

単語アクセント
先生がLHHLL
日本人がLHHHLL
学生がLHHHH
図書館がLHLLLL

実際には、単語に線を引いて高低を示すことが多いようですが、いずれにしても、「拍には『高い』と『低い』がある」という理解に基づいたこのような表記では、n拍の語に対して (n + 1)² 通りの高低のパターンがあるように見えてしまいます。もちろん、実際には日本語のアクセントはそんな仕組みではありませんん。むしろ、アクセントは以下のように表現されるべきです。

単語アクセント
先生がセンˈセイ
日本人がニホンˈジン
学生がガクセイˈ
図書館がトˈショカン

他の多くのアクセント言語と同様に、日本語のアクセントも、その本質は位置情報です。したがって、学習者が単語ごとに覚えるべきは拍の高さではなく、その位置情報だということになります。同時に、 {ou} → /オー/ などと言った規則を覚えるのと同様、アクセントがどこにあればどのような音調になる、という規則を理解する必要があります。このような体系的な学習は、最初の単語を正しく発音できるようになるまでの負担は大きいですが、実際の日本語学習が数百、数千の単語学習を伴うことを考えれば、他の選択肢はありません。(なお、これとは別の理由で、拍に2段階の高さを割り当てる記述は、棄却されなければなりません。そのような方法では、どんなに多くのピッチ配列を記憶できたとしても、未知のフレーズの正しい音調を導くことは決してできないばかりか、複合語やフレーズについてはそもそも記号列から正しい音調を導くことが不可能だからです。)

イントネーション

同様の理由で、イントネーションについても、音声表記をするべきではありません。教育ローマ字では、イントネーションの体系を分析し、それにしたがって弁別的な要素を表示します。

仮名漢字を置き換えるものではない

教育ローマ字は、日本語学習者のためのローマ字です。日本語学習者が仮名漢字を習得しなければならないからこそ、仮名漢字を正しく綴ることができるようになるように設計されています。